63 今はただ〜 |歌の意味・解説・翻訳【百人一首】
63 今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを 人づてならで 言ふよしもがな 【左京大夫道雅】
読み方(いまはただ おもひたえなむ とばかりを ひとづてならで いふよしもがな)
出展「後拾遺和歌集」
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意味「63 今はただ〜」
もう会えなくなってしまった今となっては、あなたのことをあきらめるしかありません。せめてそのことだけを、人づてではなく、あなたに直接伝える方法があればいいのに。
作者:左京大夫道雅とは?
この歌の作者:左京大夫道雅(さきょうのだいぶみちまさ)は、平安時代中期の歌人で、名前は藤原道雅(ふじわらのみちまさ)といいます。
百人一首の第54番歌の作者:儀同三司母と藤原道隆の孫にあたります。
まだ道雅が幼かった頃に、藤原道隆がなくなり、その後、家の失脚で没落しました。すさんだ生活をおくった「荒三位(あらさんみ)」といわれました。
ですが、この歌も含め、斎宮に対して詠んだ藤原道雅の歌は優れた歌が多く、風流人としても名を残しました。
解説「63 今はただ〜」
この歌は、作者の藤原道雅が、許されない相手との恋が世間にしられてしまい、もう恋人と会えなくなってしまった思いを詠んだ歌です。
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「せめて別れるのであれば、最後くらい一目会って直接伝えたい」という恋の歌ですね。
藤原道雅の恋の相手は、伊勢の斎宮をつとめた皇室の系統の女性でとても身分が高い人でした。
斎宮とは、天皇の代理として伊勢神宮で神に仕える未婚の皇女のことで、自由に恋愛ができる身ではなかったのです。
しかし、道雅と皇女は恋愛関係になってしまい、そのことを知った三条院は二人の仲を引き裂き、歌のやり取りすらもできないようにしてしまいました。
「もうどうしようもない」という切ない気持ちを、藤原道隆はこの歌であらわしています。
その後、恋の相手の女性は尼になり、数年後に23歳という若さで亡くなってしまいます。
「今はただ」は、「今となってはもう」という意味で、「思ひ絶えなむ」は、「あなたへの思いを断ち切ってしまおう」という意味になります。
「人を通じてではなく、あなたに直接会って」といういいで、「いふよしもがな」は、「言う方法があればいいのに」という意味です。
「いま」から始まる歌は2首ある
百人一首の歌で上の句が「いま」から始まる歌は2首あります。どちらも三字目で決まる「三字目決まり」の歌です。
21 いまこむと ー ありあけのつきを
63 いまはただ ー いとづてならで
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