紫式部と清少納言ってどんな人?【比較・違い】

紫式部と清少納言ってどんな人?【比較・違い】

百人一首の歌にも出てきますが、「紫式部」と「清少納言」って、何かとライバル関係にされたりすることが多いですよね。

「紫式部」と「清少納言」、どちらも名前は聞いたことがある人が多いと思いますが、二人ともそれぞれどんな人だったのでしょうか。

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そこで今回は、紫式部と清少納言の比較や違いと、代表作品の「源氏物語」と「枕草子」について、ポイントをまとめてみたいと思います。

紫式部について|どんな人だったの?

百人一首の第57番歌「めぐり逢ひて〜」の詠み手である紫式部は、平安時代中期の女性歌人です。

最近ではもうほとんど見かけることがなくなった「二千円札」の裏にかかれていた人ですね。当時はまだ写真がなかったので、本当の紫式部がどんな顔だったか、はわかりませんよね。

紫式部の父親は?

紫式部の父親は、藤原為時(ふじわらのためとき)といいます。藤原為時は、有名な漢学者でもあり、また歌人としてもすぐれていたそうです。

子供のころから漢文や漢詩を読みこなしていた紫式部のことを、父親の藤原為時は「娘じゃなくて息子だったらよかったのに」と言った、という話も伝わっています。

紫式部は結婚したの?

紫式部は、20歳くらいのころに、藤原宣孝(ふじわらののぶたか)と結婚しました。しかし、夫の藤原宣孝は結婚から2年後になくなってしまい、紫式部は未亡人になってしまいます。

「源氏物語」を紫式部が書き始めたのは、ちょうどこの頃だといわれています。「源氏物語」は完成前から大評判だったらしく、有名な権力者だった藤原道長も、紫式部のことを高く評価したそうです。

そして、一条天皇の后:中宮彰子の父親である藤原道長は、紫式部を彰子の侍女の一人として仕えさせました。

「源氏物語」について

紫式部が書いた「源氏物語」は、世界最古の長編小説といわれ、日本を代表する文学作品のひとつです。紫式部が「源氏物語」を書き上げるまでにかかった月日は、なんと10年間といわれています。

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源氏物語の主人公は「光源氏」というイケメンの貴公子です。光源氏は、天皇の血を引く貴族で、絶世の美男子です。

源氏物語のヒロインは、紫の上、という光源氏の最愛の人です。登場人物は全部で約500人と、とてもたくさんの人物が源氏物語には出てきます。

数多くの登場人物もしっかりと書き分けられ、感情描写にすぐれている、と源氏物語は高く評価されています。

源氏物語の舞台は、京都を中心に、瀬戸内海や九州にまでひろがります。

紫式部は、宮中に仕え始めてからも「源氏物語」を書き続け、続きが出るのを楽しみにしていた宮中の人たちは、新作が出るたびに先を争うようにして読んだといわれています。

清少納言について|どんな女性だったの?

百人一首の第62番歌の作者:清少納言は、平安時代を代表する女性文学者のひとりです。

清少納言は、子供の頃から「万葉集」や「古今和歌集」などの歌集を読んで和歌を学び、父親からは中国の古典文学である「漢文」を学びました。清少納言の父親は、百人一首の第42番歌の作者:清原元輔です。

清少納言は16歳のときに、橘則光(たちばなののりみつ)という男性と結婚しました。しかし、数年後には離婚することになったそうです。

当時の天皇である一条天皇の后:中宮定子の父親である藤原道隆は、定子のために教養のある女性を探していて、清少納言が適任だと判断されたといわれています。

清少納言は、自分より年下の中宮定子のもとで侍女として仕え、そのときに「清少納言」と呼ばれるようになりました。

清少納言は、知的で美しい中宮定子が大好きで、また定子も清少納言のことが気に入っていたそうです。

枕草子について

清少納言の有名な作品に「枕草子」があります。

「枕草子」は、清少納言が中宮定子のもとではたらいていたときに、宮中で見聞きしたこと、思ったことなどを、書いていた「エッセイ」で、日本最古の随筆です。

「枕草子」の書き出しの「春はあけぼの」は特に有名ですね。

「枕草子」の中には、清少納言と中宮定子のやりとりや、他の侍女との会話なども出てきます。そこでは、漢詩に関する知識にもとづく会話ややりとりがあり、清少納言の知的で頭の回転が早い様子も書き記されています。

権力者だった藤原道隆が亡くなった後、娘の中宮定子は20歳前半で若くして亡くなりました。その後の清少納言の消息は不明で、よくわかっていません。

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